学校という世界の在り方、学歴社会、偏差値、成績、受験、進路・・・そのようなことで、悩んだり疑問に思ったりすることがある人に、ぜひおすすめしたい本の紹介です。
少々文章が長くなりますが、ご興味ある方はどうぞ!
「学校とか偏差値とか そんな価値観に 囚われてしまっている」。そんな人たちにお薦めしたい本の紹介です。
私のように、偏差値全盛の時代(1973年生まれ、第2次ベビーブーム世代)に育ち、学校的価値に、よくも悪くも影響を受けてしまっている人。
なんだかんだ言っても、「学歴」とか「学校の先生の評価」とか、「成績」とか、そういうのを気にしてしまっている人。
子どもを持つ親御さんで、「子どもの成績や評価が、まるで自分の子育てに対する評価のように感じられて、プレッシャーになってしまう」、そんな人にも、ぜひ読んでもらいたい本です。
ちなみに私は、いわゆる「優等生」「いい子」で、学校生活を送ってきました。大学卒業後は、(2年間の就職浪人を経て)学校の教員にもなりました。学校的価値観や世界に、どっぷり浸かっていた(しかも、一応「適応」していた)人間だと思います。
でも、教員として現場を経験し、また2人の子どもの親となって、その 学校独特の世界・価値観に、疑問や違和感を感じるようにもなりました。(※)
(※注:学校の先生方が大変苦労なさっていることは、私も身をもって経験していますし、今も保護者として、大変感謝しています。安易な学校批判・先生批判をしたい訳ではありません。)
そのように感じるようになった一番の原因は、おそらく、わが子の親となったこと。そして、心理カウンセリングの仕事をするようになったこと、だと思います。
自分はラッキーなことに、学校システムや学校的価値観に、うまく適応することができた。自分の性格にも、たまたま合っていた。 だけど、これら世界や 価値観と、うまく合わない人もいる。適応しにくいタイプ、能力の人もいる。それが、ふつうの現実です。
実際、いわゆる「学校」 の世界や価値観って、けっこう独特だと思うんですよね。 決してそれが、「たった1つの真実」でも「正しい」でもない。「社会に出てから通用する」っていうものでもない。
・・・と、頭ではちゃんと分かっている、知っているつもりなのですが、一方で、その学校的価値観に囚われ、浸食されている私も、やっぱり どこかにいるのです。
特に、子どもが高校進学を考える年齢となった今、1人の親として、その葛藤に悩んでしまっているのが、正直なところです。
・・・そんな、今の私の悩みを聴いてくれた先輩セラピストが教えてくれたのが、以下の本でした。
◆サヨナラ、学校化社会 (ちくま文庫)
筑摩書房 2008-10-08
まずは・・・ 読んでよかったです!
教えてくれた先輩には、心から感謝!と思いました。
悩んでいる時は、どうしても固定化した視点、狭い視野になりがちです。 そんな時、別の視点や 広い視野を持つことは、悩み解決に非常に有効になるわけです。この本はまさに、そんな「別の視点」「広い視野」を与えてくれるような本でした。
ちなみに 私が普段読んでいる本は、「心理」とか「教育」とか「健康」とか、そういうジャンルに偏りがちです。
でもこの本は、一般人向けではあるけれど、おそらく「社会学」に分類される本でしょうか。 職業柄、ついつい物事を 心理学的視点で見てしまいがちな私ですが、それとは別の視点・・・時代とか、社会とか、システムとか、文化とか、そういう「マクロな社会学的視点」 で論じているこの本は、とても新鮮でした。
しかもこの本には、”アダルトチルドレン” とか ”イネイブラー” とか ”自尊感情” とか、そんな臨床心理で出てくるようなキーワードもサラッと出てくるのです。
他にも いろいろな知見が出ていて、著者が、様々な分野の文献・データ・情報から、圧倒的な知識教養を持って、論理展開していることがわかります。
その、著者の多角的で深みのある視点から、説得力ある考察がされている。 しかもそれが、読者にとても分かりやすく言語化されている! そんな本でした。
とにかく感心しきりの内容で、「うんうん!」「なるほど!」と、目から鱗がたくさん落ちる思いでした。そして、あっという間に読み切ってしまいました。
(ちなみにこの本、単行本が出たのは2002年。文庫化されたのは2008年です。読む前は、情報としてはかなり古いのではと心配したのですが、まったくの杞憂でした。むしろ、2002年の時点で、現在にも通じるこれだけの見解を出せていることが、スゴイと思いました。)
少し長くなりますが、本書から、感銘や共感を覚えた個所を、いくつか抜粋したいと思います。
偏差値身分制を内面化するということは、自己評価の評価軸が学校的価値とおなじになるということです。だから女の子や偏差値の低い男の子たちは二言めには、「どうせオレらは」「しょせん私は」と言うのです。 生まれたときから「どうせ」「しょせん」と言う赤ん坊はいません。「どうせ」と「しょせん」は、どこかで学習した結果です。大人に言われつづけ、それを取りこみ、自己評価に代える。序列意識を叩きこまれ、自分の相対的なランク――上見りゃなんぼ、下見りゃなんぼ、という相対的なポジショニングを、これでもかこれでもかと叩きこまれてきて、それが自分の自己評価にとって代わっています。だから「やりたいことをやってごらん」と言うと、「どうせオレらは」「しょせん私なんか」とこたえる。これを「人間の学校化」と言うのです。
このような価値の一元化のもとでの優勝劣敗主義が、一方で敗者の不満、他方で勝者の不安という、負け組にも勝ち組にも大きなストレスを生むのだとしたら、このシステムのなかでは勝者になろうが敗者になろうが、だれもハッピーにはなっていません。学校化社会とは、だれも幸せにしないシステムだということになります。
近代とは、「いま」を大事にしてこなかった時代です。逆にそれを、現在志向とか刹那主義とかいっておとしめさえしてきた。そして、将来のためにいまを営々と刻苦勉励し、「がんばる」ことを子どもたちにも要求してきました。「そんなことで将来どうするの」「大人になったらどうするの」と、つねに子どもは「将来」から脅迫され、いまを楽しむことを許されませんでした。現在を奪われた存在、それが近代の子どもたちだったのです。
偏差値の呪縛から自分を解放し、自分が気持ちいいと思えることを自分で探りあてながら、将来のためではなく現在をせいいっぱい楽しく生きる。私からのメッセージはこれにつきるでしょう。
大事なことは、いま、自分になにがキモチいいかという感覚を鈍らせないことです。それこそが「生きる力」なのですから。
社会学者であり、これだけ教養の深い 著者の結論も、
「今ここを生きること」
「自分の感覚を大切にすること」
そこに行き着くんだ!と知れたことは、感動でさえありました。
学校や偏差値という世界に順応し、その価値観を信じている人も、 逆に、そこに疑問を感じたり、適応できないと感じたりしている人も、興味があったら、ぜひ読んでみませんか?